画像は、ヒノキを切ったものです。猫ちゃんのご飯台にもぴったりです。
さて、自分の誕生日も近いので、母について素直な想いを書こうと思います。
母から聞いた話
今から書く話しは、わたしが中学生の頃に母から聞いたことです。
「分別もつく歳になったし、話しておくわ」
と、母と二人きりで話しをしました。
実の父は、わたしは知らないです。ギャンブル好きで生活が出来ないため、母はわたしを連れて家を飛び出したそうです。
『よくそんな奴と結婚したな~。でも、結婚しないと自分はこの世にいないのか』
と心の中で複雑な思いで聞いていました。
祖母(父方)と母でわたしの取り合いになったそうですが、
裁判の結果、母の元で育てられる事になりました。
服を鞄に詰めて飛び出したものの、お金も何も無いのでハローワークにわたしを連れて向かいました。
「子供を連れてくるところじゃない、就職する氣があるのか!帰れ」
と怒鳴られました。(実は、わたしにもうっすらと記憶が残っています。子供の記憶ってどこから始まっているのでしょうね・・・)
姉にわたしを預けて、再度ハローワークに行き、働き口を探したそうです。
しばらく、姉の自宅でお世話になっていたそうですが、姉のお店で働くパートさんに
「いつまでもお姉さんの所で甘えたらあかんよ!」
と凄い剣幕で叱られたそうです。
姉がいない所で毎度叱られるため、精神的に参っていたそうですが、
ふとチラシに団地の募集が入っているのを見つけ、応募しました。
抽選に当たってわたしと二人暮らしを始めたそうです。
母との二人暮らし
母が仕事の時は、鍵っ子でした。
寂しすぎて伯父や伯母に「寂しいねん」と電話をして
従妹を遊びに連れてきたもらった事がありました。
時には、トイレの鍵をかけて、伯父に「トイレに入れなくなった」
と電話して家に来てもらった事もありますが、全て寂しさからやってしまった悪戯でした。
他には、ジュースが飲みたくて叔父のお店の自動販売機に缶ジュースの蓋をコインの投入口に詰めました。
怖い伯父でしたが、今から思えばよく悪戯を許してくれたな~と思います。
わたしの寂しさを理解してくれていたんだと思います。
もしくは、「こいつはしゃ~ないか」と諦めていたのかもしれません(笑)
今は、亡き伯父ですが感謝しています。
母もそれを知ってか、仕事の時は従妹の家にわたしを預けるようになりました。
それからは、従妹の家で寝たり、ご飯を食べたり、遊んだりと、兄弟の様に育ちました。
今でも従妹は、兄弟の様に仲が良いです。
伯父は、うどん屋を経営していたので、幼稚園から帰ってくると、まずお店で玉子かけご飯を食べます。
「ここはうどん屋や!お前は玉子かけご飯ばっかりやの!」と伯父がぶつぶつ言いながら作ってくれました。
たまごかけご飯をたべながら、周りのお客さんと話すのが日課でした。
←この時のあだ名は『ムーミン』『ひょうたん島』『米ナス』
母は、片親である事でわたしが不憫な思いをしない様にと色々習い事をさせてくれました。
体操教室や水泳、絵画教室など。
そして、わたしが恥ずかしい思いをしない様にと礼儀を厳しく躾けられました。
ご飯は、米粒一粒残してはいけない、口を開けて食べてはいけない、肘をついてはいけない、お茶碗を持ってたべなさい、片手で食べない、よせばしをしない、靴を揃えなさい、小さい事でも嘘をつくな・・・etc
これを破ると、母の平手スマッシュが飛んできます。
スマッシュでぶっ飛ぶ事は当たり前で、鼻血が出たり、痣が残ったり、顎が痛いのが数日続いたりと、母との食事やお出かけや一緒に過ごす時間は恐怖でした・・・。
電車やバスの椅子にも座らせてもらえなかったので、一人で初めて電車に乗った時は、座って良いのかとまどったほどです。
嘘を付くなと普段からいうので、正直に話しをしたところ、スマッシュが飛んできました。
幼稚園児ながら大人の理不尽さを感じた事もあります( *´艸`)
母は、どんなに仕事で疲れていても毎日寝かしつけをしてくれました。
それが、一日の中で幸せを感じる瞬間でした。
母は、それまでの色んな人に責められてきたんだと後で知りました。
「なぜ離婚したんだ」
「片親で仕事ができるのか」
「家事はやっているのか」
「片親で子育てできると思っているのか」
「片親の子は、不良になるぞ」
何をしても責められる。
そんな状況で肉体的にも精神的にも精一杯だったんだと思います。
子供を恥ずかしくない子に育ててたいという思いには、『子供の事でこれ以上をわたし
を責めないで』という氣持ちもあったと思います。
母、再婚する
ある日「会わせたい人がいる」と母が言いました。
母が連れてくる男性に何人か会った事がありましたが、わたしはいつも敵対心を剝き出しにしていました。
なぜかわかりませんが、僕が母を守らなければという想いがありました。
母が連れてくる男性が、母に優しいのかをじーっと観察していました。
氣にいらない奴は、喚き散らして手に負えない子供を演じて別れさせようとします。
計算高いです(笑)
母が、わたしにわざわざ「会わせたい人がいる」と言った男性と会ってやる事にしました。
しぶしぶです(。◕ˇдˇ◕。)
その男性と会う当日、わたしは叔父のお店でたまごかけご飯を食べていました。
迎えに来た男性は、母ではなく、わたしを助手席に座らせました。
そして、一日中わたしと話しをしてくれました。鈴鹿サーキットへ連れて行ってくれました。
何の氣なしに「これカッコエエな~」と言った車の乗り物を、わたしの知らない所で買って後日届けてくれました。『あの人、サンタかよ』と、心の中で思っていました。
それが、今の父です。
そして、めでたく再婚し、すぐに妹も産まれました。
これが家族か~楽しいな~と感じました。
父の両親と同居する事になり、奈良県へ引越しをしました。
どんどん、家族が増えて楽しいな~最高やな~と、
しかも自分の部屋までもらえました。
クーラーがある!?どうやって使うの?
叔父のベッドのお古がある!?使っていいの?飛びのってもいいの?
なんだここは、最高やないか!!!と驚いたわたしでありました。
鬼ババ期
本家の長男として、育てる事になり母の教育にはいっそう力がはいりました。
躾だけでなく、学業にも力が入っていきました。
自分が悪いのですが、宿題をしないまま寝ると、起こされ宿題が終わるまでスマッシュが飛んできます。わたしは、それを修行と呼んでいました。修行を回避するために、学校で宿題を終わらせれば、宿題を忘れない事に氣付きました。しかし、学校で宿題をしていると教師や周りの生徒から怒られました。大人になった今でも納得していませんが・・・”(-“”-)”
有難い事に塾に通わせてもらい、家庭教師もつけていただきました。
そのため、学校でのテストは100点がとれて当たり前田のクラッカー・当然グリコのおまけ付き
テストの点数が良くて、誉められた事はないです。
参観日も何かしらわたしのあら捜しをしているので、普段より緊張します。
小学校高学年になり、ダンボールについて作文を書いた時は、
母から面白かったと言われた記憶があります。
作文の出だしが「ダンボールを知らない教えてあげよう。ダンボールとは・・・」
という書き出しが母のツボに入ったようでした。
誕生日には、必ずフルーツポンチがガラス器に盛られていました。
あれは、子供ながらに嬉しかったです。
中学生になり、母のスマッシュが飛んでくる事は無くなりました。
部活の疲れで帰宅して寝ていると
「宿題をしなさい!他の子に遅れる!」
と言われるので、氣合いで宿題をしていました。
母が探してきた塾に通っていたのですが、
部活の先輩が、不良だったので、塾に行くために部活を早退すると
次の日に相撲部屋で言う、かわいがりが待っていました。
部活の顧問は、黙認です。それでも部活が好きで、なんとか部活と塾に通っていました。
わたしは自分が痛い思いをしてきたので、後輩をいじめる事はしませんでした。
残念な事に、その後輩がさらに下の後輩をいじめだしました。止めても陰でやるわけです。
いじめというのは、なくならんな・・・と、この時に思いました。
高校受験では、校風が自由な学校を選びました。
受験が終わり、禁止されていたゲームを解禁し、毎日帰宅後ゲームをしていた所、
「他の子は、高校に向けて勉強してんねんで!差がつく。ゲームとりあげるで!」と言われました。
わたしは、日常的に漫画・ゲームが禁止でした。
ただし、妹はOK・・・なんで?という中、
受験が終わったら自分でゲーム機を買わせて欲しいという約束をして、勝ち取った権利でした。
この母の一言がきっかけで、溜めにためた怒りが爆発したわたしは、怒鳴りちらし廊下の壁を破壊し、自分の部屋の壁を破壊しました。我に返った時には、部屋が穴だらけで壁に椅子が刺さっていました・・・やりすぎた・・・
母は、仕事中の父に「息子に殺される!はよ帰ってきて!」と電話をしたそうです(笑)
ちなみに、女性や老人、子供など、自分より弱い人に手を出すな!と言われ続けてきたので、
もちろん、この時もそれ以前・以降も女性や母にも手を出した事はないです。
おそらく、あまりの暴れように母が焦ったんだと思います。
父が帰ってくるまで、父に叱られる恐怖でいっぱいでしたが、
笑いながら「穴あけたな~」と言われた時は、ホッとして涙がとまりませんでした。
父から「お母さんに謝らなあかんで」と言われた事だけは、どうしても嫌で謝りませんでした。
その日の夜から暫く、わたしのご飯は無くなりました(。◕ˇдˇ◕。)
混乱期
高校生になると、勉強しろ!と言われてもやる氣が起きず、無視をしていました。
頑張っても頑張ってもその先がいつも控えています。
「あんたは、頑張らずになんとなくでここまで来てるからな」というのが母の口癖でした。
これは、社会人になってからも言われ続けました。
母に弱音を吐くと、叱咤激励のつもりで、
「社会にでたらこんなもんじゃない!世間はこんなもんじゃない!甘い!」
と言われるので、そのうち相談もしなくなりました。
母は、自分が厳しい言葉を浴び続けてきたので、わたしを強く育てようとしたんだと今なら思えます。
表向きわたしに厳しくても、影では色んな人にわたしの事を相談し、助けてもらえる先を探していました。
高校にも行かずプラプラしていたので、母の友人から紹介してもらった新興宗教に連れていかれました。宗教など信じていない母が、そうとう精神的に追い込まれているのがわかりました。
他の人から「あなた自身が変らないと子供さんは変わらないよ」と言われた様で、
わたしと向き合おうとする様になりました。
しかし、母のやる事なす事が氣にいらないので、その度に怒鳴ると
「お母さん、どうしたらええんかもうわからへん・・・」と目の前で泣き崩れました。
そんな母を見るのは、初めてだったので、少し胸が痛くなりました。
大学に入り、一人暮らしをする事になり、母と距離がとれて、自分の精神状態が安定してくるのを感じました。しかし、慣れない事の連続でその度に母に連絡をして、教えてもらいました。
大学の費用、宿舎の費用、全て払ってもらいました。有難いです。
そして、わたしが野菜を摂っていないと思って、ダンボールいっぱいに野菜を詰めて送ってきました。
「腐らせるだけやから、こんないらん」と電話で連絡して、冷凍食品が送られてくるようになりました。
たまに帰省すると、わたしの好きな料理ばかり用意してくれました。有難いな・・・と思うのですが、口に出して言えないのです。
「美味しかったで!」というのが精いっぱいでした。
父に癌が見つかりステージ4だと診断された時は、母から電話があり
「お母さんどうしたらええの・・・?」
と言われました。
母は、わたしから見たら強い人という印象でしたが、この時にみた母は初めてでした。
母が、相談してくる事など、一度もありませんでした。
すぐ帰省して、術後の父の臓器と医者からの説明を母と一緒に聞きました。
その後父は、なんとか一命をとりとめました。
安定期
わたしが社会人になってからも、母に弱音を吐けない状況でした。
立て続けに悲しい出来事が起きて、わたしが精神的に駄目になった時期がありました。
その時は、妻(当時は彼女)と母が支えてくれました。
その後、妻と結婚をしました。
結婚をしてから実家に帰る事が増えて母は嬉しそうでした。
ですが、わたしに対する厳しさは変わりませんでした。
妻も感じるぐらいです。
数年後に父に色々と問題起こり、母は精神的に限界きていました。
「もうお母さん疲れたわ・・・どうしたらええんかな?」と相談の電話がきた時は、
『これはやばい』と感じて帰省を決めました。
帰省して父の問題について整理をしていきました。
帰省した期間は、二カ月半ほどでした。
その間、母との二人生活を続け、なんの氣なしに幼少期からのわだかまりを話しをしました。
最終的に聞いたのは、わたしを育てるのに一生懸命だったということでした。
色んな所で母がフォローしてくれている事も分かりました。
母への想い
母はいつも強い女性であり、わたしを守ってきてくれていました。
わたしは、母に守られている中で自分の好き勝手ができていたのだと思います。
何かチャレンジする時は、本当は保守的な思考の人なので心配で心配で心配で仕方ないはずなのに、
第一声は「やってみなさい」でした。
失敗した後の根回しが凄かった( ;∀;)失敗前提かい(笑)
というぐらい。母の愛ですね。
無一文で乳飲み子を育てる勇氣は相当必要だったと思います。
お陰様でわたしは、生活に不自由を感じた事もありません。
母が年を重ねて以前できていた事が出来なくなってきています。
それは、もの凄く頑張ってきたからだと思います。
家族に助けてもらえばいい事を全て母が抱えてやってきていました。
頑張り過ぎでもあり、周りに助けてと言えない、助けてももらっても自分のやり方じゃないと氣が済まない。
ある意味自分が蒔いた種なのですが、弱ってきている母にそんな事言えないです。
母は、真面目な人です。
本当は、弱音を吐きたかったのに、弱い所を見せずに頑張ってきたんだと思います。
厳しい母でしたが、わたしの心の中の大部分は、母に満足した人生を送っていただきたいという想いです。
母は、わたしや家族のために生きてきました。
そのために仕事と家事を終えた深夜にいつも勉強していました。時には、父に夜更かしている事を叱られながら資格の勉強をして、スキルアップをしてきました。
本当に頑張り屋です。
つい最近まで大変な状態が続いていましたが、仕事仲間に恵まれて、仲間と話しをするのを楽しみにして今も働いています。
母の真面目さには、脱帽しています。
母は、可愛い物やゆっくりとした時間や環境の中、お花を育てたり、珈琲を飲んだり、本を読んだり、ピアノを弾きたいと言います。
是非、そうした時間をとってもらいたいです。
本当に、自分の好きな物に囲まれて好きなように生きてもらいたいと思っています。
母が好きなものをわたしが手彫りでプレゼントできたらと考えています。
おそらく、受けとったら「ありがとう。でも、邪魔になるわ」
と言うと思います(笑)ですが、大事にしてくれるのを知っています。
昨年までわたしが幼稚園で作った作品を置いていたぐらいです。
自分で捨てれないというので、わたしが捨てました。
いつも会うと氣が合わない母とわたしですが、尊敬していますし、
幸せな人生を送ってもらいたいです。
何でもいいから、
一日の中で笑顔になれる時間・ほっと癒される時間・好きな事をする時間を過ごしてもらいです。
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◎マカロニ健康家族という自然食品店を東京神田でやっております。
◎奈良県黒滝村から木製品を仕入れています。わたし自身も木工品をこれから作っていきます。
よかったらみてね(^_-)-☆
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